男里遺跡(おのさといせき)

発見!弥生時代の大集落

男里遺跡を海側から望む

画面中央にみえるのは男里川旧河道(きゅうかどう)の痕跡(こんせき)とされる双子池(ふたごいけ)。南北に連なる池の南東方向に弥生(やよい)時代集落の中心部がありました。池の右上に市内唯一の式内社、男(おの)神社の鎮守(ちんじゅ)の森。

(写真)男里遺跡航空写真

三千年前から二千数百年に始まったとされる弥生(やよい)時代、市内にはいくつもの集落が存在していたことが明らかとなっています。市内に時代の始まりを告げた氏の松遺跡、泉南地域を代表する大きな集落であった男里遺跡や三軒屋(さんげんや)遺跡、中期から後期にかけての高地性集落である滑瀬(なめんじょ)遺跡や新家オドリ山遺跡など。なかでも男里遺跡については弥生時代の中ごろの集落の様子がかなり明らかとなっています。
双子池(ふたごいけ)の南東方向にひろがる平地、およそ南北200メートル、東西100メートルの範囲から、住まいであったと考えられる30数棟の竪穴(たてあな)建物をはじめ、掘立柱(ほったてばしら)建物が立ち並び、集落から少し離れた地点には方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や木棺墓(もっかんぼ)と呼ばれる墓が築かれていました。集落を取り囲むように流れる自然の流路(りゅうろ)からは、おびただしい量の土器、タコツボ、石のヤジリ、稲穂を刈るための石包丁(いしぼうちょう)などが出土し、中には建物の姿を描いた絵画土器も含まれていました。他地域で製作され運ばれてきたものもあることから、外との交流が盛んであったことがわかります。また男里遺跡の南東約1.5キロメートル、信達岡中(しんだちおかなか)の山中より発見された林昌寺(りんしょうじ)銅鐸(どうたく)も弥生時代中ごろに製作されたものと考えられており、何らかの関連があったものと推測することができます。
このように集落内の様子が具体的にわかる一方、彼らの生活を支えた水田など、耕作地についてはいまだ明らかになっていません。またこの集落が存続したのは比較的短期間であったと考えられ、移動先として男里川上流に位置する滑瀬遺跡などが候補地としてあがっています。

地図情報

この記事に関するお問い合わせ先

泉南市埋蔵文化財センター
〒590-0505大阪府泉南市信達大苗代374番地の4
電話番号:072-483-6789
ファックス番号:072-483-7306​​​​​​​
e-mail:maibun@city.sennan.lg.jp

お問い合わせはこちらから