お菊髪結いの松(おきく かみゆいのまつ)

「お菊松」の由来となった悲話

泉南市新家・納経山(のうきょうざん)

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の妾、小督局(おごうのつぼね)の子お菊は、小督の兄にあたる波有手村(ぼうで)後藤六郎兵衛に育てられ、 慶長(けいちょう)元(1615)年4月、紀州名草郡山口村の代官・山口喜内(やまぐちきない)の嫡男(ちゃくなん)、兵内(へいない)に嫁ぎましたが、新婚5日後、兵内は大坂夏の陣で大坂城に馳(は)せ参じました。
徳川方の紀州領主浅野長晟(あさのながあきら)の大軍が和歌山から進攻する情勢を密書に託し、お菊は夫の後を追い大坂城へと向かいました。街道を避け、山道を踏み分け、風吹(かぜふき)峠を越え、泉南市の堀河谷(ほりごだに)あたりから松の大木がそびえる納経山にたどり着いたころ、お菊は自らの髪を切って男装し、その髪をかたわらの松のところに埋めたと伝えられます。
その後も間道をひた走り、ようやく大坂城に密書を届けることができたのです。しかし、夫との対面も束の間、帰路を急ぐ途中、山口城の落城を知り、波有手村の実家に身を隠したのですが、やがて夫の討死、大坂落城の悲報がもたらされます。
お菊もまた、徳川方に捕らわれの身となり、自ら死を望み、紀州南穂村の河原において処刑されたといわれています。

(写真)お菊松

「お菊松」は和泉山脈の一支脈、標高333メートルの納経山の中にあった松の巨木といわれます。大坂夏の陣に際して残された悲話から、 "お菊髪結いの松" と呼ばれていました。

現在は枯れて無くなってしまい、記念の石碑が残されるのみとなっています。

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